【観劇】ディグ・ディグ・フレイミング!感想-情報化社会で「死」と向き合う

基本情報

【作品名】
ディグ・ディグ・フレイミング! 〜私はロボットではありません〜 (範宙遊泳新作本公演)

【日時】
 2022/06/25 18:30~

【劇場】
 東京芸術劇場 シアターイースト

【作・演出(敬称略)】
 山本卓卓

【出演(敬称略)】
 埜本幸良
 福原冠
 亀上空花
 小濱昭博(劇団 短距離男道ミサイル)
 李そじん(青年団/東京デスロック)
 百瀬朔
 村岡希美(ナイロン100℃/阿佐ヶ谷スパイダース)

時代は笑って許せるか?

その集団は何度も何度も人々を怒らせた。彼らを怒る人々はせいぜい遠隔的にいやがらせを行うくらいで決してその集団の目の前には現れなかった。怒られた実感のない集団は、自分たちの過ちを忘れまた再び人々を怒らせるようなことをする。怒る人々はますます怒るがその集団を社会から抹殺することはできない。なぜならばその集団には驚くべき愛らしさがあったからだった。

━━━第66回岸田國士戯曲賞受賞作家・山本卓卓渾身の新作長編はめげない人々に捧げる生命讃歌。2020年の公演中止を経て待望の上演! https://www.hanchuyuei2017.com/digdig22

感想

先日、範宙遊泳さんの『ディグ・ディグ・フレイミング』を見てきたので、その感想です。

ストーリーのネタバレがあります。

公演を見に行くことにした理由は、2019年に上演された山本卓卓さん脚本の舞台『うまれてないからまだ死ねない』という舞台がすごく強烈で、その『うまれてないからまだ死ねない』を演じた『範宙遊泳』の新作だったからです。

『うまれてないからまだ死ねない』はチラシの雰囲気がいいな、と思って見に行った舞台だったんですが、その舞台であんなに衝撃を受けると思っていませんでした。帰り道、一緒に観劇した友だちと無言で見つめ合ってしまったことを忘れられません。

ちなみに、『うまれてないからまだ死ねない』は今日現在、YouTubeでも公開されているので興味があれば見てみてください。


www.youtube.com

『ディグ・ディグ・フレイミング』はそんな衝撃的な作品を作った方の新作ということで、ずっと楽しみにしていた舞台でした。(この作品は2年前に一度公演中止になっているため、文字通り待望の新作でした。)

舞台の注意書きとして

※本作はネット空間における誹謗中傷や炎上をテーマにしております。

人間の悪意に対して乗り越えていく様を描いており、下記のような、鑑賞者のトラウマを刺激する可能性のある表現を含みます。

あらかじめご了承のうえ、ご観劇ください。

<・悪意ある誹謗中傷を他者に投げつける表現 ・自死についての表現>

という注意書きもあったため、観る前から結構緊張していて、作品に集中して向き合えるよう事前に本作品についてのインタビュー記事などをさっと読んでから会場に向かいました。

ただ、ネット空間における誹謗中傷や炎上というのは軽いテーマではないし、すごく緊張していたんですが、各インタビューや観劇前に配られるパンフレットの山本卓卓さんのあいさつを読んでみると、なんかすごく陰惨な物語ではなさそうだということがわかって、ますます「この作品は一体なんなんだろう」という気持ちが高まりました。インタビューやあいさつ、とくにあいさつの方では、世界における「武器」と「笑い」について、まるで祈りのような言葉が綴られていたのが印象的でした。

あとこれは余談ですが、開演前のグッズ売場でネタバレアクリルキーホルダーが大入り袋に入れられて、中が見えないようにして販売されていたのがおもしろかったです。ネ……ネタバレ!?みたいな感じで……。

全席自由席っていうのもめずらしくて、どこに座ればいいのかだいぶ戸惑いました(現地についてから自由席だったことに気がついたため)。

ここからはストーリーを振り返りながら感想を書いていきます。記事冒頭にも書きましたが、内容やアクキーのネタバレ(アクキーのネタバレ?)ありです。

物語は、炎上している4人組のYouTuberグループのシーンから始まります。

彼らは自分たちが「炎上」していることはわかっていますが、その理由がわからずに困っています。あれが原因かもしれない、これが原因かもしれない、と話し合いながら炎上の原因を探そうとしますが、なかなかたどり着くことができません(話はそれるけどこのシーンで挟まれるそれぞれの自己紹介パートが役者さんと映像を組み合わせたわかりやすい構成になっていたのがよかった)。

もう原因はわからないけどとにかく謝ってしまえばいいんじゃないか、いやいやそれじゃあ炎上は収まらないだろう、と押し問答を繰り返すことになります。

時系列が前後しますが、この炎上の原因は舞台を最後まで見てもはっきりとはわからないようになっていました(私の見落としでなければ……見落としかも……不安になってきた……)。

これは多分、炎上の原因が明確になってしまうと「特定の事件」の解決が物語の主役になってしまい、「炎上という概念」と向き合おうという部分がぼやけてしまうからじゃないかなと思います。これに関して後述する「受け取り方の違い」にも起因している気がします。

過去の動画を見返しながら(過去の動画を「掘る」=「ディグ」がここにもかかっているのかも)原因を探し、4人は過去のコラボ相手であるアラレ・ビヨンドという女性と再会します。彼女は強烈なキャラクター性を持った女性のYouTuberで、その言動もやはり強烈。メタ視点で見ると、炎上の当事者である4人組に対していわゆる「正論パンチ」を繰り出すキャラクターです。こういうキャラクターは作者の思想を作中で主張するための存在に見えてしまうことがあるんですが、彼女はそういう言動をする理由が作中に設定されていたため、そういう風には見えなかったのがよかった。これは個人的な感想ですが、この舞台の推しです。大好き。

4人と彼女が炎上の原因を探すうちに……、というかアラレ・ビヨンドは自分の炎上でもないのにここまで付き合ってくれるのがすごい(これにも理由はちゃんとあるんですが、これに対してはその理由よりもアフタートークで語られていた山本卓卓さんの描きたかった世界に起因しているような気がします)。

(山本卓卓さんの描きたかった世界=「目の前に困っている人がいたら助けたくなる」世界)

そのうち、4人のうちの1人、エキセントリック与太郎が「炎上は自分のせいだ、そういう声が聞こえる」と言い始め、明らかに常軌を逸した言動を始めます。ここでは舞台上の後方スクリーンにネット上の暴言に似た文言が表示され、彼がどういう風に追い詰められているのかが視覚的にわかるようになっていました。

また、この演出では後ろに文字が表示されたときにその文章を読み上げる声も聞こえるんですが、これは「日本語として聞こえるパターン」と「日本語として聞こえないパターン」の2パターンあります。これはちょっとしたギミックで、「日本語として聞こえるパターン」=「存在する」、「日本語として聞こえないパターン」=「実在しない(彼の頭の中だけに聞こえている)」なんじゃないかと思いました。全てのセリフを覚えているわけではないので確実ではないんですが、日本語として聞こえる場合は他のキャラクターにも見えていて、日本語として聞こえないパターンは本人にしかわからない情報(おまじないなど)で責め立てているように見えたので……、どうだろう。

その声に追い詰められてメンバーは「死ななければ」という強迫観念に駆られ、自殺を試みようとします。幸いにも周りのメンバーやアラレ・ビヨンドが止めてくれるし、ここでもアラレ・ビヨンドはかっこいいことを言うのですが……、本当にいいシーンでした。ここでメンバーの自殺未遂に憤ったキングは暴言を続ける画面の向こうに手を伸ばし(スクリーンが帯状の布を重ねて作られているので、通り抜けができるようになっている)、書き込みの犯人を引きずりだすんですが、なんとそれは貞子!……ではなく、ロクちゃんのお母さんだったのでした。

ロクちゃんに触れる前に、貞子について。ここまであまり書いていなかったんですが、この舞台の音楽は80~90年代のポップスが意図的に使用されていて、その音楽の時代にあわせたのかな~と思っています。

さて、ここで突然登場したロクちゃん。彼女は6ちゃんねるの配信主で、顔を隠して配信をしている女の子です。彼女はこの4人組の、特にリーダーのファンで、過去にコラボ動画を撮った相手でもありました。どうしてロクちゃんのお母さんが怒っているかを聞くと、彼女は「収録のときにお前たちがロクちゃんを傷つけたからだ!そのせいで娘が部屋に引きこもってしまった!」と詰め寄ってきます。しかし、4人には覚えがないし、もっとよく話を聞いてみると、お母さんの言う収録の様子と4人が覚えている収録の様子は全く違っている(具体的には、ロクちゃんの被り物を無理やり取ったのか、自分から取ったのかというところ)。しかもお母さんの希望で動画は削除してしまったため、事実を確認することはできません。

これを彼らは「受け取り方の違い」と言いますが(認識の違いだったかも、あいまいですみません)、説明してもお母さんはなかなか納得しないため、彼らは実際にロクちゃんのところに行ってみることに。

ここでロクちゃん&ロクちゃんのお母さんも舞台上に現れて、舞台のキービジュアルのメンバーが勢ぞろいとなりました。

実際にロクちゃんから話を聞いてみると、ロクちゃんが怒っているのはお母さんに対して「お母さんがあこがれの人とのコラボを台無しにしてしまった」というところらしい。どちらかといえば4人の言っていることが事実に近い様子。ただ、ここも完全に「正しい」収録の風景は提示されませんでした。私はこれが舞台のテーマの1つだったからじゃないかと思っています(尺的に同じシーンを3回やれないというのもあるかも)。火種は人の受け取り方で、そこから広がるときにソースとなるのは既に一度誰かが受け取ったあとのもので、事実とは違う。メタ的にその状況が作られていたと感じました。

そうして4人とロクちゃん、ロクちゃんのお母さんは話し合い、完全に理解しあうことはできなかったかもしれないけれど、ある程度の相互理解を得てハッピーエンド。……にはなりません。ちなみにここでお母さんのパソコンがあまりに古くて呪具呼ばわりされたり、お母さんが実は既に亡くなっている(多分……)ことがわかるんですが、これが主題じゃないのもちょっとすごい。登場人物の一人が既に幽霊だったって結構大ごとだと思うんですが、そこはびっくりするほどあっさり流されます。幽霊だったからこそ画面を超えてやってきたし、その際の風貌が貞子だったのかもしれないし、もしくは、幽霊=貞子という(貞子がただの幽霊なのかは疑問がありますが……)わかりやすい記号としての表現だったのかもしれません。

ここでハッピーエンドにならなかった理由、それは悪意がまだまだ彼らに牙をむいたからです。彼らを炎上させていたのはロクちゃんのお母さんだけではなかった、それだけの理由ですが、それはひどく悲しいことで、解決するのはとても困難であるように見えました。なぜなら、配信者たちには画面の向こうにいる誰かが「誰」なのかわからない。それは途方もない絶望です。

そうして、再びスクリーン上に現れる悪意たちは彼らの本名であったり、個人情報であったり、根も葉もないうわさ話をまき散らし始めます。その中には4人組に対するものだけではなく、アラレ・ビヨンドに対するものもありました。彼女はその悪意に対して本当の姿(本名や実際の立場)を晒して反論し、悪意に負けそうになる配信者たちや悪意をぶつけてくる画面の向こうの人々にこう言います。こう言いますと言った割には一言一句違えずに書き出すことができないのでうろ覚えなところもあるんですが、「人を気にしすぎるのも、人を攻撃してしまうのも、病だ」「休んで、通院して、病を治して欲しい」みたいな感じのことを言います。

私はこのシーンがすごく好きで、心に残りました。多分、このシーンのセリフがすごく現実的に「解決方法」を示しているからだと思います。このセリフって現状、観客を現実に引き戻しかねないタイプの現実味を帯びているので使いどころが難しいと思うんですが、それでもこのセリフを使ったところにこの舞台の内容を現実へと波及させたいという気持ちを強く感じて、個人的にすごくいいなあと感じました(もちろん全てが通院でよくなることではないとわかっていますが……)。

アラレは過去に自殺未遂をしたことがあるという設定がここでわかるので、その視点から「死んじゃだめだ」という言葉が出てくるのも切なくてよかったです。

でも、画面は彼らをあざ笑うかのように燃え上がり(文字通り炎上している状態を示しています)、そこに飛び込んでいった彼らは画面の向こう側で「死」と直面することになります。そしてその「死」は画面を飛び越えて舞台上に現れ、私たちは「これがあのアクキーだ!!!」と心の中で叫ぶことになりました。

ちょっとなにを言っているのかわからないと思うんですが、これはもう実際に舞台を見てもらうしかなくて、とにかくでっっっかい「死(物理)」が舞台上に現れて、その「死」のアクリルキーホルダーが公演グッズとして売られているという状態だと思ってください。説明しても謎が深まるばかりになってしまう。

このシーンの演出はあらゆる意味で衝撃的で、その「死」の姿形はもちろん、画面の向こう側の悪意が「死そのもの」であるというのは結構、衝撃的でした。悪意を発信した側はそれが画面を超えて「死」として相手を襲うなんて思っていない人がほとんどで、そういう無自覚・無責任な残酷さがこうして視覚的に表現されたことにハッとしたんだと思います。それを裏付けるように、アラレは自分たちのことを暴露していく「死」に向かって、その暴露を投げかけてきているのは普通のサラリーマンや、普通の主婦、普通の学生であることを突き付けて行く。このシーンもやはり実際に見てもらわないと伝わらないと思うんですが、「普通の人がこんなに残酷になれる」という指摘というよりは、「こんなに残酷なことをしていても、善良な心はあるんだろう」ということを突き付けているように見えて、ここも印象的なシーンでした。

アラレの奮闘も空しく、「死」はメンバーを次々に殺していきます。実際に死んだというシーンではないと思うんですが、「死」に襲われて倒れていく彼らの姿は「殺された」としか表現のしようがないものだったので、あえてこの表現で書きました。

そして、ここでシーンはいきなり「if」の世界に切り替わります。

その世界で、彼ら4人は炎上することもなく握手会を開催していて、アラレは彼らのマネージャーをしている。ロクちゃんは被り物をすることもなく、お母さんと一緒に彼らの握手会に行く。

そういうchapter(世界)です。というか、今さらなんですがこの舞台、chapterという表現で章立てされていて、そういう細かいところでもYoutuberをテーマにしていることを大事にしているようでよかったです。

そんな美しい(?)世界を見たあとで、再び舞台上は現実の世界に引き戻されます。 現実ではみんなは「死」に倒されたまま、なんらかのダメージが本当にあったのか、動けなくなっていました。しかも、今までの自分たちの姿が全てライブ配信されていたことがわかります。ここでいう「全て」がどこからどこまでなのか、そもそも彼らが倒れている場所はどこなのか、それらははっきりしませんが(スタジオかな~)、そういうところをはっきりさせないことで主題に注目させるのも演劇の手法のひとつなのかも。同時に、舞台の背景に舞台上の様子がライブ配信され始めます。

ここで私たち観客は、今まで見ていたこの舞台『ディグ・ディグ・フレイミング』が彼らのライブ配信であった仕組みになっているわけです。もしかしたら違うかもしれないけど……多分、そう!この辺、メタ構成が大好きな私は大歓喜。見に行ってよかった~!

ただ、彼らとしては自分たちが炎上にあたふたして、火消ししようとして、結局画面の向こうの悪意に殺されてしまったところが全て配信されてしまっていたのでたまったもんじゃない。「もうおしまいだ~、フォロワーも0になっちゃったし」と嘆くメンバーに、リーダーは「もうどうせ0なんだから大丈夫!めげるな!」と声をかけました。

さらに、0になっちゃったならまた始めればいい、めげるな!今サイレン聞こえるし(本当に聞こえる)、多分視聴者に通報されていて、警察が来ちゃって、逮捕されちゃうけどめげるなよ!俺はみんな仲間にするから!メンバーもロクちゃんもロクちゃんのお母さんも元カノも(アラレは実は元カノなのである)、「死」も、みんな仲間にしてやる!みたいな決意を口にします。この辺全然詩的な表現じゃなくて、めちゃくちゃ普通の言葉で言うんですが、だからこそ響いたものがあったと思います。自分もこの人の仲間になりたいな、って思った観客は私以外にも居たんじゃないかなって思う。

そうして、ハッピーエンドではないかもしれないけど、想像していたよりもずっと前向きな感じで舞台は幕を閉じる。

と思いきや、ここで「このサイレン、救急車だよ!配信を見てた人が呼んでくれたんだ!俺たち助かるんだよ!」という台詞が入ります。この舞台における視聴者(配信を見ていた人)はイコール、観客だろうというのはさっき書きました。つまりこの演出は「私」が「彼ら」を救う物語であったことを示唆しています。これに気がついたとき、私はこの脚本が私たち観客の善性を信じて(もしくは祈って)書かれたのだろうと感じて胸が熱くなりました。人に信じてもらうってこんなに嬉しいことなんだなって思った。

ストーリーを追いながら感想を書いたので、もしかしたらまとまりのない感想になってしまったかもしれません。ただ、舞台ってあとから見返すことが難しい媒体でもあるので、未来の自分のためにも舞台そのものの内容もあわせて記録しておきたいと思ったので、今回はそういう形で書くことにしました。

現在、ネット炎上をテーマにした作品は少なくありません。そんな中で、この作品は人間の愚かさを指摘こそすれ、それを醜く、倒すべきものとしては描かなかったところが特徴的だったと思います。そもそも「戦わない」物語だったのかもしれません。それはロクちゃんのお母さんと配信者たちの確執は認識のすれ違いから起きたことであることを示唆したことや、中盤のアラレの「それは病。通院して、癒されてください」という台詞や、終盤のキングの「俺は死も仲間にする!」という台詞からも窺えます。それに、「死」の概念に変化する前の悪意、それを生み出した人間を描かなかったことがそれを意味しているように思いました(ロクちゃんのお母さんは例外なんですが、「人間」ではなかったという理屈も通るには通るため、うまく作られている)。もちろん、悪意と戦うことを否定していたと解釈しているわけではありません。

この物語では、必ずしも「死」の概念の向こう側に他人がいるとは限らないことも示されていました。そこがネット炎上の怖いところであり、この物語で「悪意」ではなく「死」の概念との向き合い方を描いた理由なんじゃないかと思っています。自分に悪意を向けているのが自分だった場合、それを倒すことがなにを意味するのか……、それは作中やアフタートークで十分過ぎるほどに語られていました(清書中に思いついたので括弧内に追記しますが、だから「癒されてください」という台詞があったのだと思います)。

幸いにもアフタートークのある回を見ることができたので、その内容も踏まえて書いていきますが、山本卓卓さんはこの物語を「ファンタジー」だと仰っていて、さらに「登場人物が愛せる相手じゃないと脚本を書けない」とも言っていました。

これは私も観劇しながら感じていて、主役の配信者たちって人を怒らせるタイプのノリではあるんですが、決して悪人としては描かれていなかった。見ているうちに、それこそ舞台のあらすじにあった通り私も彼らを好きになってしまっていたし、このあたりのキャラクターの作りはとても丁寧でした。私の気持ちがそうなることで、この舞台の主題もよりクリアに見えたような気がします。

この物語で山本卓卓さんが人間をどういうものとして描きたかったのかというのもアフタートークでは語ってもらえて、そこで「人間ってたとえ他人でも、目の前に困っている人がいたら助けると思うんです。自分はそうであって欲しい」と仰っていました。

私はこの考え方をすごく「そうだな」って思うし、同時に「ファンタジーだな」とも思う。人間ってそこまでお人好しではないと思うんだけど、それでも、目の前に困っている人がいたらほんの少しは助けたいって思う気持ちが生まれるような気もします。山本卓卓さんは私たちのそういう小さな「助けたい」という気持ちをすくい上げて、舞台のあのラストに繋げたんじゃないかと思うと、あの終わり方がすごく腑に落ちる。

知らない人たちの炎上だったら、私たちは助けようとはしなかったかもしれない。でも、視聴者として彼らを身近に感じた結果、彼らを助けたいという気持ちが生まれた。それが「仲間」ということなのかもしれないと感じられたのがすごくよかったと思いました。

アフタートークに一緒に登壇されていた渋革まろんさんの「文字と文字の触れ合いって、生身を通していないからか、心と心が直接ぶつかってしまう気がする」というお話もすごく興味深くて、もしかしたらあの「死」の概念は悪意に限定されるものだけではなく、そういうすれ違いからもおきるものなのかもしれないと思わせてくれました。画面を通した「そこ」は「目の前」じゃないのか、私たちが手を差し伸べたくなる「目の前」、その範囲はどこまでなのか。それは人によって違うだろうし、時代の移り変わりによっても変わるものだと思います。ただ、人々の思うそれがほんの少しずつ広くなるだけでこの世界はきっと良くなっていくのではないかとこの身をもって感じさせてくれる舞台だったと思います。

ここでは書きませんが、山本卓卓さんがこの舞台に込められた想いはとても強くて、それ故にその考え方が合わない場合もあるんじゃないかな、と感じる部分も少なくない舞台でした。ただ、少なくとも私はこの舞台に込められた祈りに近い想いにとても共感したし、色々な人に知ってもらいたいと感じました。人間が人間である限り逃れられない「死」、それとの向き合い方、そういった自分の在り方を考える良い機会になったと思います。

最後は、パンフレットにあった山本卓卓さんの言葉を借りて締めさせてもらいたいと思います。

それでは、みなさんに平穏が訪れますよう。

ちなみに・・・

ネタバレアクキーは帰りに買いました。今は机の前に飾ってあります。