【映画】シン・エヴァンゲリオン劇場版:||感想-現実と虚構の波打ち際で

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この記事は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」のネタバレを含みます。
※映画に対する概ね肯定的な感想となぜか私の思い出話が書いてある記事です。

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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||の感想は映画そのものの感想というより「私とエヴァンゲリオンの○年間」のようなエッセイじみたものが多いという話をTwitterで見かけた。結論から言えばこの記事もそういったエッセイじみたものだし、エッセイというよりももはや日記やポエムに近い。

その原因のひとつは「エヴァンゲリオンが完結するまでに長い時間がかかったから」だと思う。少なくとも当時アニメ放送を見ていた子どもが大人になるくらいの十分な時間があって、その時間の中にはエヴァンゲリオンとは関係ないようで関係あるような、やっぱり関係ない出来事がたくさんあった(はずだ)。シンを語る上でエヴァンゲリオンのことを思い出そうとすると否応なく同時に呼び起こされるその記憶が、こういった謎の怪文書(怪文書とか言うな)を生み出してしまうのだと思うと、時間というものはいろいろなものにいろいろな影響を与えるものだな……と今さらながら思います。

そういう恥ずかしい文章をわざわざこうして書き残したのにはちゃんと理由があって、これはエヴァに限った話ではないんだけど、私はなんでもかんでも外部から影響を受けやすい性格をしているため(その性質の善し悪しは置いといて)、自分の感想を自分の言葉であるうちに形にしておきたかったからです。自分で自分の感想をまとめる前に人の感想を見たり聞いたりすると、自分が感じた印象がすぐに書き換えられてしまうように感じるし、特に、自分の好きな作品が批判されていたりするとめちゃくちゃになってしまって(心とかそういうのが)、なんかもう感想の感想の方が強くなって作品の感想とか忘れてしまう。

なので、今回はそうなる前に自分の言葉をまとめておこうという魂胆で先に感想を書きました。ブログの公開は見てからだいぶ経ってしまったんだけど、これの下書き自体はちゃんとエヴァを見たその日に音声入力で書いたものです。ちなみに全然解読できないブロックがいくつかあって死ぬかと思った。

閑話休題。

とはいえ、私はエヴァンゲリオンのオタクというわけではなく、アニメ、旧劇場版、コミックス版、新劇場版を見たというだけのその辺の人だ。
それでよくブログに感想なんて書こうと思ったな!?というのは自分でも思うんだけど、前述の理由と、あとやっぱりエヴァって自分が多感な時期に触れた作品でもあったから、それが完結するっていうのは自分で思っていた以上に大きな出来事だったみたいだと映画を見終わってしみじみと感じたのが大きかったんだと思う。

でもまあ、映画完結にあたってテレビ版、旧劇場版、コミックス版、新劇場版全てを見直し、体調も万全、パンフレットも読み込んでパーフェクトになった人の感想というわけではないから、この感想は「エヴァのことがずっと心のどこかに引っかかっていた人の軽い感想(隙自語)」くらいのものだと思うし、考察とかそういう意味での価値はあまりないように思います。ミリしら(よりはチョットシッテル!)みたいな感想です。

もう自分語りが長くなってしまった。まだまだ自分語りが続きます。

私たちとエヴァンゲリオン

エヴァンゲリオンが流行った頃(と言っても私はリアルタイムより少し遅れていた)というのは、私の記憶だと、まだスマートフォンどころか携帯電話も全然普及していなかった頃だった。もしかしたら携帯電話はあったかもしれないけど画面に絵が表示されるとかそういうのは全然なくて、バックライトが3色に光る(もはやバックライトの概念が通用するのかもわからん)とか、オリジナル着信音が三和音になるとか、そういうのがめちゃくちゃ話題になるような時代だったと思う。 インターネットもあるかないかみたいな感じの……、なんか書いてるうちにあったような気がしてきたけど……、あったかもしれん……、でもまあ基本的にテレビか雑誌でしかアニメの情報が得られなかった頃の田舎町、そんな私の周りですら「エヴァンゲリオン」という作品は既に異彩を放っていたような記憶がある。

SNSどころかメールも満足に使えないような生活の中で、アニメがあんなに流行るなんていうのはなんかもう、都会のことはよくわからないけど、少なくとも私が住んでいた町ではめちゃくちゃすごいことだった。オタクと言えばエヴァンゲリオン、オタクと言えば綾波レイ、綾波レイと言えば包帯、みたいなそういう、今で言うネットミームみたいなものがが起きていた(ネットがない頃のミームを指す言葉ってただのミームなんだろうか)。エヴァンゲリオンを知らなくても綾波レイは知っているという謎現象まで発生したくらいだからなんかほんとにすごかった。

そういう時代、エヴァンゲリオンで初めてSFというジャンルのアニメに触れた私は(実際問題エヴァンゲリオンがSFなのかどうかはおいておいて、当時私はそう感じた)、とにかくめちゃくちゃ衝撃を受けた。内容はよくわからなかったところも多かったし、今でもわからんな……と思うところは結構あるけど、とにかくその絵柄や表現技法を革新的なものだと感じたのだ。

このときの感動が、今でも自分の好きな作品傾向に強く影響していると思う。少なくともSFというジャンルや、「セカイ系」、メタ表現が好きになるきっかけになった。

テレビシリーズを見終えたあと、劇場版というものがあると知ってレンタルビデオ屋に行き、2本のビデオを借りてきたのも懐かしい思い出だ。正確に言えば当時の自分のお小遣いではテレビシリーズ全話+劇場版を全て借りることはできなかったため、なんかたくさん入っていてお得そうだな……と思って借りてきたのが劇場版だった。今思えば最悪の事故が発生していた。

深夜に父親と妹と一緒に見て、めちゃくちゃ気まずい思いをしたし、「最低だ……」の意味がわかる父親は私以上に気まずい思いをしていたと思う(当時の私はよくわからなかったので別に気にならなかったのも恐ろしい)。アニメに興味のない母は寝ていた。マジで寝ていてくれてよかったと思う。

そうしてテレビシリーズ、旧劇場版を経て、エヴァンゲリオンは私の中で完結したものになった。 でも、私は「エヴァンゲリオンは本当に終わったんだろうか……」と考え続けることになる。それがどうしてだったのかは覚えていない。もう本当に全く覚えていないんだけど、このとき私は「エヴァンゲリオンはまだ終わっていない」と半ば確信している状態にあり、これに根拠があったのかどうか本当に1ミリも思い出せない。今ちゃんと調べ直せばわかるような気がしたんだけど、特にそれらしい情報は出てこなかった。怖い。夢だったのか妄想だったのかはわからないけれど、妄想だったらこいつ怖いな……と思う(自分のことだが……)。

序、破、Q、そして「シン」へ

私が大人になる頃には、エヴァンゲリオンはパチンコになっていた。私はアルバイトで稼いだ3万円をパチンコで失い、もう二度とパチンコはするまいと思っていた。私には荷が重すぎたのだ。ちょっとやってみたいだけならゲームセンターのパチンコ台で十分だったのに、とんだ大火傷じゃんこれは……、みたいになっていた。負けたことしかない私は、未だにパチンコの景品交換のシステムがどうなっているのかを知らない。

カラオケのアニメジャンルのランキングには必ず「残酷な天使のテーゼ」と「魂のルフラン」がランクインしていたが、それでも続編は始まらなかった時代。私はついにエヴァンゲリオン続編が自分の妄想だったのではないかと疑い始めていた。コミックス版を買い集めたのもこのときだ。いややっぱりこんなに続編あると思っていたんだからなんか続編の情報があったんだと思う。その記憶がマジで全然ない。待ちわびすぎて狂ってたんだろうか。自分の記憶が怖くなってきた。

そうしてまた時間が過ぎ、ついにエヴァンゲリオンの「リビルド」が発表された。

時系列が前後するけれど、Qからシンの間には既に8年近いの月日を要しているし、序からだとなんかもう多分10年以上が経っている。なにが言いたいかというと、当時のことを私は全く覚えていない。驚いたのか喜んだのかも覚えてないし、なんの媒体で知ったのかも全然思い出せない。こんな、人生における重大な出来事も人間って忘れちゃうんだな……(そんなに?)。

それでも、序、破、Q、全て劇場に足を運んだことは覚えている。元々映画には年に2、3回行けばいい方なので、よっぽど映画館で見たかったんだと思う。私は細かいことはあんまりよくわからない方だったけど、わからないなりに楽しんだと思う。私はわくわくする序が好きで、アクションが多くて楽しいから破が好きだと言う友だちと話をしたのも懐かしい。

私の中には多分「よくわからないものをみんなで考えること」を含めてエヴァンゲリオンだ、みたいな気持ちがあった。だから、映画を見終わったあとにインターネットの考察を読んでいる時間も、エヴァンゲリオンを楽しんでいる時間だった。だとすればエヴァンゲリオンは本当に長い間、私を楽しませてくれた作品だと思う。

もちろん、そうやって多種多様な意見を見て楽しむ作品であると同時に、エンターテイメント作品である以上「難しく考えなくてもよいもの」「自分一人で消化できるもの」であって欲しいという気持ちもあった。私は「シン」にそういう矛盾した期待を抱いていたのかもしれない。

シン・エヴァンゲリオン

公開日、私のTwitterのTLはにぎわっていた(現実の友だちが少ないとこうして世間の動向を知るのが自然とTwitterになってしまう)。

別にエヴァンゲリオンで構成したTLというわけでもないのに、あの人もこの人もエヴァンゲリオンを見に行っていた。なんなら、数年ぶりに「エヴァ見た?」とLINEを送ってくる学生時代の友人すらいた。同窓会か?とほとんど顔を出したことのない現実世界のイベントのことを考えた。

私が「シン」を慌てて見に行ったのは、もしかしたらネットで ネタバレがそろそろ出るかも、と思ったからだった。元々ネタバレとかはあんまり気にしないんだけど、せっかく十年くらい(どんぶり勘定)待ったんだしネタバレなしで見てみようかな、くらいの気持ちだった。

それにあたって、私は感性を信頼している人が「シンエヴァの新の副読本はこれではないか」と勧めていた安野モヨコさんの「監督不行届」を読んだ。

監督不行届 (FEEL COMICS)

監督不行届 (FEEL COMICS)

作者本人と夫・庵野秀明との結婚生活を描いた初のエッセイコミック(ただし、事実からはある程度の脚色がなされている)。(Wikipedia)

結果的に、私はこれを読んでから映画を見てよかった。エッセイ部分もそうだけど、特に巻末に載っていた庵野監督の話がシンエヴァの根底に関わっているような気がしたし、それが真実かどうかは置いておいて、私がそうだと捉えたこと自体がシンエヴァを経験する上で重要だったと感じた。

とはいえ、一度読んでしまった以上は「監督不行届」を読まずに「シンエヴァ」を見た自分とは永遠に出会えないわけで、比較しようがない。私はこれを読んでなかったらかなり印象が変わってしまっていたと思うから(多分悪い意味の方に)、本当に読んでおいてよかった。ただ、これは個人の感情に左右される部分だから、私個人はシンエヴァのために万人におすすめするものとまでは言えない。でもエッセイマンガ自体はおもしろかったし興味深かったので、WEB公開分とかを読んで興味が出たら買って読んでみて欲しいとは思う。

annomoyoco.com 気になる場合はこちらに試し読みもあります。

エヴァンゲリオンに対してだけではなく、すべてのエンターテイメント作品、芸術作品において作品と作者は切り離して考えたいって思ってるんだけど、知ってしまったことは気になるし、今回はそれが良い方向に働いたのでよかった。

ちなみに、偶然目に入ったのでこちらも先に読みました。

本当にお疲れ様でした以外の言葉もない。

ちょっと話が逸れてしまったけど、私が映画を見る前に得た情報はこれくらいだった。私のTLがそうだったのか、全体的にそうだったのかは知る由もないけれど、とにかく幸運なことに私はネタバレを見ないようにしようと思ってから、ネタバレをほとんど見ない状態で映画に臨むことができたのだ。

ついでに上映時間が長いことが不安だったから通路端の座席を取ることにも成功した。というか、私が言った映画館には人は結構いたと思うけどマジでみっちりギチギチではなかったので割と楽な気持ちで見られて、環境もよかったんだと思う。

いい加減に映画の話をすると(冒頭に書いておいたことの繰り返しになるが)、私はこの映画を見ることができてとてもよかったと思う。この辺りは文章のニュアンス的なものになるけど、この映画自体に対する気持ちよりも「この映画を見た」という経験そのものに対する満足感があったと表現した方が正確かもしれない。

この映画の完結を待っているあいだに満足のハードルが上がりに上がっている自覚があった。正直に言ってしまうと、もう「俺の考えた最強のエヴァンゲリオン完結編(※)」という概念を超えるものなんてないんだろうなと思っていたし、ほとんどの観客がそう思っていたんじゃないかとまで思っていた。

※ 具体的にこういう展開がいいとかそういうのはなく、ぼんやりとめちゃくちゃすごいに違いない!と信じている状態を指します。

そして、そんな私に「シン・エヴァ」はそのハードルを超えるたのではなく、私の異常な期待を一度リセットして、その上で満足のいく「完結」を見せてくれた。

具体的なことを言うと、全体的に表現もテーマも(テーマそのものと言うよりはテーマの見せ方なのかもしれない)わかりやすいと感じた。物語を終わらせることを「風呂敷を畳む」と表現するが、まさにそれだったように思う。上手い表現がなかなか見つからないんだけど、長年かけてあちこちに散らばった要素を一つずつ拾い集めていく物語……と言うのが近いかもしれない。

個人的には結構わからない部分とかわからない単語とかもだいぶあったけど、それがストレスにならない描き方だったというか……、もちろん全部知りたいという気持ちはあるけど、わからないなりに満足できたのでよかったと思う。そういう自分の感情を通して、エヴァンゲリオンがエンターテイメント作品である以上、そのゴールは「観客に作品を100パーセント理解させる」ことではなく、「観客を楽しませることだったのかもしれない」と思うようになった。

私が結構気にしていたテレビシリーズとの関係については、作品中にその映像が出てきた時点で0ではないんだろうけれど、話自体が繋がっているというよりはテレビシリーズから見ていた観客へのファンサービスのようなものだったのかな、という印象を受けた。元々、テレビシリーズと同じカットを意図的に使っている部分も多かったし、ラストの原画シーンもなんらかの意味があるというよりはテレビシリーズの演出を意図的に使ったのかな、みたいな……。

気に入ったシーンというか、表現の点で言えば「全てのエヴァンゲリオンにさようなら」っていうのが思った以上に物理的な「さよなら」だったのがちょっと面白くてよかったな。雰囲気だけでさよならをキャッチコピーにしたわけじゃなくて、誰が見ても絶対的な「さよなら」になってたのはすごくよかったと思う(好きなタイプの力業でもあった)。「確かに(確かに)」ってなるのは気持ちいい。

とにかく、本当にこの作品の完結を見届けることができてよかったな……、と家に帰るまで何度も何度も思った。家に帰るのには電車に乗るわけだけど、なんかもう電車に乗って帰ることにすら興奮した。車窓から海の見える電車に乗っていたらこの100倍は興奮できたと思う。

キャラクターについて

私は物語を見るときに主人公とか、そのときの視点になっているキャラクターにものすごく感情移入してしまう。感情移入というか、「自分がこの立場だったら」という見方をしがちで(逆に言えば「私ならこの立場にならない」という考え方をあまりしない)、それ故にシンジに対してあまり悪い感情を持つことがなかった。 全体的にうじうじしていたりいじけていたりしがちだとは思わなくもないけれど、そもそもこの年齢でこんなことが起きたらそうなっちゃうんだろうなって思うし、なんなら当時中学生のの私がエヴァパイロットだったらもっともっと酷いことになったと思う。私は私にできないことを架空の世界の架空のキャラクターにもあまり求めようと思わないのかもしれない。

そして、「シン」ではまだ「子どものまま」だったシンジに対してトウジやヒカリ、ケンスケは「もう大人になって」いた(おそらくアスカもそうだった)。 大人になった彼らの視点は、かつて「エヴァンゲリオン」のファンだった子ども、今は大人になった私の視点にうまく重なる部分があった。大人になった彼らが大人としてシンジに接することで、私は私自身の心境の変化とともに作品中の時間の流れをリアルに感じ取ることができた。また、この大人から子どもへの気持ちの向け方に一つ、かつてはなかった「譲歩(悪くいえば諦め)」という感情が見え隠れしていたのも印象的だったし、必ずしもどちらかが正しいという主張が作品側から押しつけられなかったのもよかった。このシーンではあるがままの第三村、人の在り方のみを示していたのではないか、と思う。

ただ、この表現を意図的にやっていたんだとすると「シン」は昔からのファン向けということになってしまうし、個人的には今回のエヴァンゲリオンって所謂古参向けというわけではないと思うので、これは私が勝手にそう思いこんだだけかも。 それでも私は一度滅んでから再興しつつある村の様子はどこか懐かしく、それが「懐かしい明日(※)」のようであると感じた。田植えなんて、幼稚園のときにちょっと体験しただけなのに勝手に無理矢理懐かしくなるなという話ではある。

※懐かしい明日:合唱曲「時の旅人」より。他にも「汗を拭って~」の辺りも似た感じの趣がある気がします。

この第三村のシーンでは、一見平和に見える生活を通して色々なものが対比され、それぞれの在り方をより強調するように描かれていた(と思う)。 先述したシンジと元同級生たちによる子どもと大人の対比、引きこもったシンジと村での生活に溶け込み始める「そっくりさん」、無垢な14歳である綾波と赤ん坊。特にこの黒いプラグスーツの綾波とヒカリの子どもの対比から感じられたのは今回のエヴァンゲリオンの後半において重要なポイントとなった、肉体と精神の非・比例性(そんな言葉があるのかはわからないので今作った)。人の精神的成長は周りの環境が促すという実例を提示した上で、このあとの展開でアスカやゲンドウの精神性を描いてくれたおかげでこの辺りがぐっと受け入れやすくなっていたと思う。

その上で「そっくりさん」に名前をつけられなかった(というよりも「綾波は綾波」だった)シンジの精神性、他人を見るときにその姿と精神を切り離して考えることは難しいという気持ちを描くことで、シンジとアスカの間に生まれた溝(この溝はアスカ出陣直前とラストシーンにて強調されていた)の説明にもなっていたのかもしれない。良くも悪くも(私はよかったと感じているが)、「シン」はキャラクターをラストへの導線をわかりやすくする存在として使っていたと思う。

碇ゲンドウ

前述の姿と精神の話の流れで話すと、作中で「うまく大人になれなかった人物」として描かれていたうちの一人がゲンドウだったのだと思う。映画中盤(長すぎて本当に中盤だったのか記憶が怪しい)でその姿を変えたことで、今までの碇ゲンドウとの乖離を視覚的にわかりやすくし、かつシンジたちとの断絶を予感させるものになった。やっぱここもわかりやすい表現になっていた。

ゲンドウが望んだ「愛する人にまた会いたい」と言う気持ち、それは物語の主人公が起こしたものであれば美談として語られることが多い。でも、彼はエヴァンゲリオンシリーズにおいて主人公ではなかったために、「悪役」のようなものになってしまった。 これは彼が元々悪役として作られたというよりも、あえてゲンドウを主人公にしなかったことで「誰もが抱く願い(正義)と、その上にある周囲の犠牲」を前面に出す、メタ的な手法だったんじゃないかと思う。これって元々エヴァンゲリオンに限った話ではなく、現実世界においてもそういうものだし、そもそもテレビシリーズではゼーレもネルフもそれぞれの願い(正義)のために動いていたことを考えればあながち間違いじゃない気がする。 この「それぞれの願い」の終着点がラストシーンに繋がると思ってるんだけど、それはこのあとの「ラストシーン」の項にて。

とはいえ自分のやりたいことのために世界を巻き込むのはね~~~、やっぱ良くないと思うよ私は。

式波・アスカ・ラングレー

結局惣流→式波になった理由なんだった!?ないならないでそういうものだったんだなあと受け止めるんだけど、見落としてたらヤだな……(気になっていた部分ではあるので)。

それは置いておくとしても、テレビシリーズや旧劇に比べると出番・掘り下げともに少な目だった印象。個人的な感情としてはもっとアスカを見たかったと思うものの、そもそも「シン」では既に主人公であるシンジとアスカの間には大きな断絶があり(彼女はそれを「先に大人になっちゃった」と表現した)、それゆえにもう「他人」であることが明確になっていた。そうなってしまうとアスカが「シンジの物語」に占める比率がより少なくなるのも道理だったのかもしれない。

テレビシリーズ・旧劇・新劇場版、その全てにおいて方向性や正義性はともかくめちゃくちゃよくがんばったパイロットだったと思う。背負っているものが重く、その上で精神性はかなり「人間」に近いキャラクターだった。かつての私は惣流・アスカ・ランングレーの強さに憧れていたが、今は彼女の強さを本当に正しかったのだろうか?と感じてしまう。そんな「人間らしい」立場にあった彼女が「作られた」存在であったというのは少なからず衝撃を受けた。

ちなみに、式波もシリーズであり、作られた子どもたちであるという話は今回突然出てきたような気がするんだけど、「最初からそうだった」のだとしたらこんなにわかりやすい説明もない。ここに関してもがっつり風呂敷をたたみにきたな!いいぞ!になった。

冬月コウゾウと真希波・マリ・イラストリアス

この辺り、過去のヱヴァンゲリヲン新劇場版で説明あったっけ!?もはや何の記憶もないのにシンエヴァを見た人になってきてしまった。

私はコミックス版のぼんやりした記憶で、冬月教授の下に居たのがゲンドウ、ユイ、マリだったはず……、くらいの認識だったんだけど、それでなんとか持ちこたえられたのでよかったです。

作中ではゲンドウもユイもマリも子どもであった部分を見せていた中、最初から最後まで大人として描かれていたのが冬月だったように思う。どうしてそこまでゲンドウに付き合ってしまったんだ!?と思う部分はあるものの、最後の言葉やマリのために用意したエヴァンゲリオンのことを考えると、純粋に生徒思いだったのかもしれないとも思う。それにしてはとんでもないことに付き合ってしまっているが……。

単なる思わせぶりな人でもなく、ゲンドウのコマでもなく、強キャラ感を出した上で人間味のある最期を用意されていたのもよかった。ある意味この人が一番溶鉱炉に親指を立てて沈んだまである(概念的に)。

マリは正直よくわからなかった気がするんだけど、シンジのために動いていたと言うよりはここもゲンドウ、冬月と同様に自分の関わってしまったものの後片付けの一環として動いていたように感じる部分が多かった。

シンジを中心とした「現在」の戦いとゲンドウを中心とした「過去」の戦いが存在する中、マリは「過去」と「現在」を繋ぐパイロットだった(旧シリーズではこの役割を担うキャラクターがおそらく存在せず、二つの戦いは噛み合うことなく終わったように思う)。そして、過去の清算を終えたマリはシンジとともに「未来」へ向かったのかもしれない。彼女が新劇場版におけるデウス・エクス・マキナ的存在であったことは否めない。

葛城ミサト

私は旧劇からミサトが好きで、というか多分最初は好きじゃなかったんだけどいつの間にか好きになっていて、これが大人になるってことか……と思っていました。

それが序、破と来て、あのQ。 正直ミサトの好感度がここから上がることってあり得るのか……?状態だった。

「シン」ではその不安を払拭する行動を取ってくれたから感動やらなにやらでめちゃくちゃ泣いてしまった。もちろんミサトの行動、シンジや乗員に対してだけではなく、自分の息子にしたことについてはそれぞれの考え方があると思うけど、私は納得できたし、めちゃくちゃ好きだ(感情)。 旧劇では「大人の女」であることが強調されていたミサトが、「シン」では「シンジと同じ」=「同志」である側面を強調されていたのも印象的だった。この後の項で語る「親子の縁」という点においてあのシーンでシンジの背を押すのはミサトでしかあり得なかったという物語の構成も上手いし、ここ(甲板?でのやりとりのシーン)は「シン・エヴァ」の中で一つの転機であもある。 「私とあなたには同じところがある」という言葉に説得力を持たせることは難しいが、それをここで観客に察させるのではなく、もうセリフで説明してしまった辺り(私はこれで助かったし、よい表現だったと思うが)、やはりこの映画自体がわかりやすさに比重を置いていた感じはある。

あと普通にちゃんと責任取ろうとしてくれる上官なのが印象よかったです(急に現実みたいなことを言ってしまった)。

世界観

これに関しては、なにもかもうろ覚えで「シン」を見た私が語れることはほとんどないと思うんだけど、その一つのテーマが「大人と子ども(≒父と子)(≒他人と他人)」であったことは私にもなんとなくわかって(この記事全体に言えるんですが、私が勝手にわかってしまっただけの可能性はある)、そこが自分の信念と乖離していなかったのでめちゃくちゃ見やすかった。 見ていて違和感のない作りだったみたいな、そんな感じ。

エヴァンゲリオンではテレビシリーズからずっと、ゲンドウとシンジを中心に様々な親子関係が描かれていた。血縁者だけではなく、疑似家族までいちいち数えていたらキリがないほどの組数がいる。そりゃほとんどの人間には生きているからには親はいるんだけど、こういったヒーローもの(ヒーローものとは少し違う気もするが)においては、主人公やその周りの大人、特にその行動を制限してしまいがちな両親は物語の中心から外されていることが多い。それをわざわざ描いていることを思うと、そこがテーマに近いものであることはなんとなく予想できる(そもそも1話から父さんに呼ばれて云々~なので)。

その上で「親子関係」に注目して物語を見ると、その関係性の着地点は同じ価値観を持たず、様々な親子関係が様々な着地をしていることに気がつく。私はその描き方が好きだった。

「シン」は親子関係、それを構成する家族愛やそれに似たものを善や悪に振り分けることはなく、また概念として賛美することもなかった。その上で「縁は残る」という事実は残し、単語にすれば同じものとしてカテゴライズされる感情を「それはそれ、これはこれ」≒「それもひとつの他人と他人の関係性」として発散させたことに、開放感すらあった。

こうして見ると、人類を滅ぼしそうな謎の敵「使徒」と戦っていたり人類側は人類側で仲間割れしてドンパチしてるのに、その辺すっ飛ばしてメインテーマが「人間関係」だったのもすごい話だな。難しい話も多いから私自身「よくわからないな」になったとこも多いんだけど、その状態でもおもしろかったのはその人間関係の方にも見せ場が合ったからだと思う(もちろん、そっちのバトルとかメインで見てたらもしかしたら物足りないって人もいるのかもしれない)。

子どもはいつか大人になる

自分が大人になって見ていると、アニメを見ていて寂しいと感じることがある。それは世界の中心が子どもたちであることで、これはもちろん「大人中心のアニメにしろ!」とかそういうことではなくて、ただ私が勝手に「私は大人になってしまったんだな……」と思うだけだ。 それに、大人を中心にしたアニメだって今はたくさんあるから、そういう気分のときはそういうアニメを見ればいい。 シン、は子どものシンジのための物語というよりも、シンジという一人のキャラクターの物語であったように思う。

シン・エヴァンゲリオンでは……というよりも、破からQの間では作中で14年の時が流れ、そしてQから「シン」の間には現実として8年近い時間が流れている。現実との時間経過のリンクこそが最大のギミックだったと言うつもりはないものの(一気にまとめて見る人もいるだろうし)、ただ、そこに時間経過が発生したのは事実だ。

少なくない視聴者がシンジを置いて大人になり、また、シンジ同様に置いてけぼりになっていた。その構図の中でシンジの成長が描かれたことによって、「置いて行かれていた自分の一部が、シンジとともに今の自分に追いつく」という体験はなかなかできないものだったと思う。意図的な演出なのかどうかはさておき、貴重な体験を味わうことができたのはよかった。

「置いて行かれた」シンジを取り巻く大人たちをまだ子どもであるシンジは拒絶する。その解決方法が「そっとしておく」という諦めにも似た(実際は諦めとは違うが)行為だったのも印象的だった。子どもの時間と大人の時間の流れ方は違うということをそれを如実に表しているシーンだ。

シンジやアスカに感情移入していた私たちはもういない(「私たち」なんて主語が大きくなってしまったけど、まあこれは私の話だ)。それじゃあ、と用意された感情移入先が第三村の彼ら、トウジやヒカリやケンスケ(他の人々も含めて)はそれ自体が大人になった自分のIFであったのかもしれない。 エヴァンゲリオンという作品の中に自分の居場所があると最後まで感じることができたのは、そうした感情移入先の視点移行がスムーズだったからじゃないかと思う。

感情移入できる作品が良い作品とは限らないけど、できた方がのめり込めるし、愛しやすいという側面はあるはずだ。それに、後述するけれど「シン・エヴァンゲリオン」は「現実と虚構」の物語であるという性質を持つ以上、観客一人一人に当事者意識を持たせることは重要だったのではないかと思う。

それはAAAヴンダーのクルーに関しても顕著で、これは世界観との兼ね合い(人材不足)もあるだろうが、かつてのネルフ職員のプロフェッショナル具合に反して、未熟な部分が……と言うより、人間臭さが勝っていた。人造人間エヴァンゲリオンに対する信仰心(のようなもの)は薄れ、命を懸けた戦いにすら主観的であるクルーたち。賛否はありそうだと感じたけれど、私だったら私の命は私に懸けたいし、彼らの行動も否定「すべき」という程のものではないように思うし、やっぱりこちらの方が感情移入はしやすいかもしれない。

私たちの(また主語がデカい)中にあったエヴァンゲリオンという幻想、期待。それらをリセットするような視点を持つキャラクターを通して、私たちはもう一度「エヴァンゲリオンとはなんだったのか」を思う。

すべてのエヴァンゲリオンとはなんなのか、エヴァンゲリオンの始まりとはなんなのか、テレビシリーズと旧劇場版はなんだったのか。っていうか、いきなり繰り広げられ始めたこの初号機と第十三号機の戦いは一体なんなのか(これはマジでよくわからなかったので劇場では呆然としていた)。

虚構と現実、その波打ち際で

急にタイトルがポエムになった。

どこからがラストシーンかっていうのにも諸説ある気がするけど、そもそも「シン」は終わるための物語であるという体裁を保っていた故に作品全てがラストシーンであったとも言える。でもまあそんなこと言ってると話が進まないから、ここでは「ゲンドウがマイナス宇宙に入ったところ」からラストシーンだったということにして進める。それでもだいぶ長いラストシーンってことになってしまうんだけど……、でもラストはラストなので……(?)。

なぜここからをラストシーンと定義したいかというと、マイナス宇宙にシンジがたどり着いた時点で「シンジの物語」は終わったと感じたからだ。別の宇宙を観測できる存在になった時点で(作中では人間にそれはできないため、できる形で知覚するというようなことが言われていましたが……)、それはシンジではなく上のレイヤーに存在する「なにか」になってしまう(このあたりは「うみねこのなく頃に」などで得た知識が多いからそう感じるのかもしれない)。

※エヴァとは全然関係ないけど「うみねこのなく頃に」はゲーム版の補足もあってわかりやすいのでめちゃくちゃ巻数があるところ以外はコミカライズ版がおすすめ。

では、このあとで語られたのがなにかというと、一段上のレイヤー、つまり観客と同じ視点から語られる「エヴァンゲリオンの物語」だ(実際には観客はそれを観測しているので「シンジの物語の一段上、かつ観客の一段下のレイヤー」となる)。 そこには様々なIFの過去があり、中には「テレビシリーズ」も含まれていた。 ここに来るまでの間「やっぱ今さらテレビシリーズとリンクさせるようなことはなく、完全リメイクだったんだな」と思っていたのに……、ここで出す!?しかもあんまりにもいきなり流れて消えていったのでループ説に固執しすぎた自分が見た幻覚だったかもしれん……と思ってしばらく怖くてネット検索もできなかった。

父と向き合い、新たなる槍を手にしたシンジはエヴァンゲリオンに関わった人間を一人一人救って(ここは便宜上「救って」という単語を使うけど、実際救っていたというのとはニュアンスが違うと思う。でも、しっくりくる語彙が全然思いつかない。ないのかもしれん)いくあのシーン、明確にシンジが救ったキャラクターはおそらく子ども(チルドレン)だけだった。それがなにを意味するのかはわからない。単に、戦友だから救ったとか、それくらい単純な話の可能性もあるし、「エヴァンゲリオンのない世界」に行く前に話をしておきたいだけだった可能性もあるし……。

書き出してみると想像以上に見たまま以上のことなんにもわかってないかも。これでよく感想書こうと思ったな……みたいな気持ちになってきた。ほんとに公開する!?これ!?(今さら?)

マイナス宇宙ではなんでもありか~と思いながら映画を見ていたわけですが、その中に出てきた「マイナス宇宙では現実と虚構が入り交じる」という言葉。私はこの言葉がこの映画において最も重要なテーマの一つだったんじゃないかと思っている。

この言葉が効いてくるのはこの後の現実(=観客と同レイヤー)に存在する、駅でのシーン→エンディングの実写シーン。 このシーンはおそらく「エヴァンゲリオンのない世界」だ。向こう側のホームにいる「子どもたち」とシンジはエヴァンゲリオンを通さなければ出会うことはなかったともとれるし、もしかしたらあちら側にも「エヴァンゲリオンのいない世界」のシンジがいるのかもしれないともとれる。現実に近いが故に、幻想的という逆説的なシーンだ。

全然関係ないし急に話が戻るが、このシーンの前の海のシーンで一度絵コンテのアニメになるのは深い意味がある(ここで第四の壁を超えたとか考える余地はあると思う)というよりも、テレビ版ラストを思わせるサービスシーンだったのかなと思った。思い出したけどどこに書いていいのかわからないからいきなりここに書いてしまった。乱暴な文章だな……。

話を戻して、エンディングの実写シーンについて。 私はここを「物語の終点」と取らずに、ここ(=現実世界)がマイナス宇宙から拾い上げた「エヴァンゲリオンのない世界」だとしたら、と考えながらエンドロールを眺めていた。まあ、それはそれで、その前のシーンで言っている「起こってしまったことはなくすことはできない」という言葉をどうとらえるかが難しくなってしまうし、私はよくわからないままだ(もしかしたら、「エヴァンゲリオンのない世界のシンジは別のシンジでしかない」という話なのかもしれないが、それも合っているのかはわからない)。

また、こういった平行世界ものには(エヴァンゲリオンのこれを単純に平行世界ものと捉えてよいのかはわからないが)往々にして発生する問題がある。 それは「IF世界がいくつでもあるなら、この世界だけ救われても意味がないんじゃないか?」という問題だ。 この問題は基本的に観客が物語の上位レイヤーにいる時点で避けられない。それを避けるには世界が限られたものであることを示すことしかなく、世界は多元世界解釈ではないことにするか(シュタインズゲート風に言えば世界線の収束が起こる)、そもそもIF世界なんてものはない物語を描くしかない。この辺りは多元世界ものだけではなく、タイムスリップもののあるある課題(だと思う)なので、色々な作品を読み比べて見るのも楽しい。ドラゴンボールにも出てくるし、なんかだいぶ多いな。

とは言えそんなことは観客の解釈の問題だから、シンエヴァだって「この世界はエヴァンゲリオンがない世界です、でもマイナス宇宙のどこかにはまだエヴァンゲリオンがあるかもしれません」のまま終わってもよかったはずだ。

ただ、これは私の捉え方だけど、庵野監督は前述した「監督不行届」で「虚構(物語)で得た感情を現実の力にするような作品をすごいと思っている」みたいなことを言っていたような気がして、そういう考え方の人の作品ならそういうメッセージがどこかにあるんじゃないかと……、つまり「監督が描きたかったのは、『現実に波及する虚構』だったのではないか」と思った。 だから、これは「成長の末に少年少女が大人になり、虚構と別れて現実に戻る」というメッセージではなく、「虚構で得た『なにか』は現実の力になる」というメッセージだったと考えた。

虚構からはなにも得られないわけではない。マイナス宇宙(=精神世界)ではマイナス宇宙では現実と虚構の区別はなく、虚構の中で生まれたエネルギーはときに現実にも作用する。それこそが虚構(=物語)の力であり、虚構と現実は相互に作用し、影響しあうものである。そういうメッセージとして受けとるのもいいんじゃないかな、と私は思う。あと、なんかその方が私が元気が出る。

そう考えると、もちろんこれは前段の私の解釈があっていればの話ではあるけれど、多くの世界の中で観客が客観視できない唯一の世界=同じレイヤーの世界に物語を地続きにすることで、「現実」の唯一性を示したのではないかと思う。どういうことかというと、「シンジが作った(作ったのか?)、「エヴァのない世界」こそが私たちのいる「今」なのかもしれない」ということだ。

私自身がメタ設定みたいなものが好きだから、それだとテンション上がるな……、につきるだけで根拠とかそういう話ではないんだけど、この現実が誰かの願いで作られたものならこの世界で頑張るのも悪くない気がするし、それこそが虚構の作り出すエネルギーなのかもしれないとも思う。単純だけど、せっかくきれいな海と空を見たんだから、そういう気分になってもいいかなと思う。

おわりに

ここまで全部妄想だし、妄想だけでこんな記事を書いてしまったの若干どうかしてしまったと思うんだけど、そう思ったから最終的に「見てよかった」と思えたのかもしれない。私が求めていたのは「解決」ではなく「完結」だったんだろうし、シンエヴァは私のその願いを限りなく完全に近い形で叶えてくれた。すごく満足だったし、これを見られて本当によかった。

すごくよい形でさよならができたと思うけど、もし「さようならがまた会うためのおまじない」だとしたら、またいつか、この物語に会うことがあるのかもしれない。そのときはまた、この物語を楽しみたいと願っています。

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